『紳士になるためのアドヴァイス』(平野正和監督)インタビュー

Axi(s)Rhythm:
作品制作の経緯についてお聞かせください。
平野:
アニメーションを作る前に、自分の中で「これ、面白いな」と思ったものや心が動いたものを抽出して、再構成していくという作り方をしています。
この時はマーク・トウェインの『小さい女の子へのアドヴァイス』っていう作品を以前に読んだことがあったのと、あとイギリスの作家でジョナサン・スウィフトの『召使心得』は、召使に対して上流階級の人が「こういう風に仕事をうまくやってるふりをしなさい」みたいなことを言っている。そういう映像に向かなそうな題材でものすごく面白いものっていうのをやりたかった。
映画好きの方の中には、映画のメッセージ性が嫌だとか、言語的なものが嫌だという考え方もありますよね。その意見は重々理解しているんですけども、私自身も映画がすごく好きで。
そんな立場の人間が、アニメーションというフィールドを使って、実写だとものすごく嫌われるような、ある意味で無理難題みたいなことを、思い切りやってみようと思ったのが最初のきっかけです。
無理を通そうとすると、当然、何かしら工夫をしなければいけない。そこで演出が発生するというか。
「これが一番やりやすいだろう」という方法を最初から選んでしまうのは、実は危険な発想だとも思っています。
それから、アニメーションは実写よりも、もう少し観念的なものを扱うべきだとも考えていて。私は哲学書や箴言集がものすごく好きですし、そういうものを使ったコメディを作る自信もありました。
それらを全部組み合わせて、偉そうなやつが自分よりも弱い立場だと思ってる人間に対して教訓を垂れてるっていうこと自体をコメディ化してる作品なんです。
さっきの『召使心得』とか『小さい女の子へのアドヴァイス』とか、手塚治虫さんが漫画の中で「自分のことを情けない人間」って描いたみたいに、偉そうにしているけれど、実は大したことがない。そのことが観客にも極端な形で分かるようにする。
これをアニメーションという、ものすごく視覚が優先される表現を使ったら、ものすごく面白い試みになるんじゃないかなっていうのが、多分最初の考えですね。
Axi(s)Rhythm:
タイトルにも《紳士》という言葉が出てきます。
それは、いわゆる日本的な発想とは少し違うようにも感じます。もしかすると、日本にはそもそも、そういう概念があまりないのかもしれません。
《紳士》というものが立ち上がってきた経緯について、お聞かせいただけますか?
平野:
箴言集や哲学書というのは、基本的には、徳の高い人や善人が、「こういうふうにありなさい」と説くわけですよ。
ただ、今回はコメディを作りたかったということもあって、単純に本当に善い方向へ導いてもしょうがないと思っていました。
そんな中で、イーヴリン・ウォーの小説を読んだんです。タイトルは忘れてしまったんですが、上流階級の人たちの内心を描いた短編小説でした。
同じ時期に、マックス・ビアボームの小説もいろいろ読んでいて。
そのあたりから、紳士というものは、社交上はみんなが目指すべきものとされているけれど、よく考えると、かなり馬鹿馬鹿しく見えるものなんだなということに気づきました。
今回の作品には出していませんが、例えば《レディーファースト》もそうです。
一見すると相手を尊重しているように見えるけれど、実は何らかの利益を期待して、先回りしてドアを開けているのかもしれない。
テーブルマナーや、わざと回りくどい言葉遣いをすることも、何かしらの利益を期待しての行動とも考えられます。
いわゆる哲学書などが説いている、本当の意味での《善い》人とは、実は真逆なんですよね。
それなのに、そういう振る舞いが「徳の高いもの」として扱われている。そこが面白い概念だと思いました。
「紳士を目指しなさい」ということを主題に据えることで、普段は見えにくい、どうでもいいようなルールを可視化できるのではないかと思ったんです。
Axi(s)Rhythm:
この作品から受ける《紳士》のイメージは、いわゆる私たちが持っているイメージとは、かなり逆ですよね。
ただ、そういう裏側にあるものを、あえて勧めていると考えると、非常に納得がいきます。
平野:
誰しも、何らかの利益を求めて行動していると思うんです。
宗教でも、例えば「こうすれば天国に行けるよ」という教えがあるとしたら、「天国に行く」という利益を期待しての行動になりますよね。それは、本物のモラルから来た行動とは少し違うと思うんです。
そういうものを、いちばん極端に戯画化した存在が《紳士》なんだと思います。
それに、アジア人が《紳士》について語るということ自体が、そもそも少しおかしなことですから。「こんなものを真剣に受け取らないでくれよ」というメッセージでもあります(笑)。
Axi(s)Rhythm:
「面白フラッシュ倉庫的な、近年のネットにもあるユーモアを感じつつ、凄まじい作品でした」という感想をいただいています。
確かに本作には、さまざまなイメージが投入されています。
作品を作り始める段階では、かなり細かいところまで決めて制作されるのでしょうか?
平野:
コンテは作ります。レイアウトも決めてはいます。
プロの仕事であれば、コンテをそのまま映像化することになると思うんですけど、私の場合は、コンテをそのまま映像に移すというよりも、実作の段階でプラスアルファがあって、より面白くならないと、作る意味が感じられないんです。
なので細かく決めてはいますが、実際に作業をしているときに、「もっとこういうことをした方がいいんじゃないか」と思うことがあれば、根幹がブレない範囲ですべてのカットに対して試していく。逆に言うと、それが自分の仕事だと思ってやっていました。
Axi(s)Rhythm:
ほかには、「面白いだけで終わらず、作品として成立しているところが素晴らしい。笑いと世界観の強度が混合している作品は魅力的で、惹き込まれます」という感想もいただいています。
全編ユーモアにあふれている一方で、同時にドキッとさせるようなシニカルさもあります。それが、世界観の強度にもつながっているのかなという気がします。
この世界観については、先ほどお話に出たコンテの段階で、かなり設計されてから制作に取りかかられているのでしょうか?
平野:
シナリオの段階では、かなり練り上げたと思います。ただ、シナリオをそのまま映像にするのは、やはりまずい。
映像とシナリオが、それぞれ独立した存在として協調し合うものになるために、コンテを描きました。
根幹にあったのは、「話が面白くない人を題材にしよう」ということです。
そこは最初から最後までブレていませんでしたし、自分でも心からそう思っていたので。
Axi(s)Rhythm:
本作で示されるアドヴァイスは、大きく二つに分けられると思います。
食べることや、「紅茶は17杯以下にしましょう」といった、《振る舞い》に関するもの。
そして、話が面白くない人について等の、《会話》に関するもの。――この二つに集約されるのかなと思いました。
アドヴァイスを構成する際に、意識されたことはありますか?
平野:
面白い話は、後天的にできるようになると思っています。修行というほどではないですが、真面目に取り組んでいこうよ、という感じです。
人間は社会的な動物で、一人きりで生きていけるものではないと思うんです。そう考えると、テーブルマナーのような《行動》が、ある種の免罪符として機能することもある。
でも、やはり本人に魅力があること。「この人は面白い」「この人と一緒にいると楽しい」と思ってもらえることが、一番大事なんですよね。
そのために、いろいろな映画を観たり、本を読んだりする。そして、それを自分の中で考えて、再構成して、人を楽しませる話ができるようになったり、創作につなげたりする。
――どうしても、自分自身の経験から、そういう例えになってしまうんですけど、とにかく、そういうことがすごく大事だと思っています。やらないと損なのではないか、とも思います。
例えば、どれほど料理がおいしかったとしても、作った人が不愛想だと、その分だけ差し引かれて評価されてしまいますよね。
本作はコメディですが、全部が全部デタラメという作品にはしたくなくて。その裏側には、ある種の本気を混ぜているつもりです。
絵が上手ければいいとか、数学ができればいいとか、そういう単純な話でもないなという気はしています。
Axi(s)Rhythm:
今までのお話を伺っていて、先日の広島アニメーションシーズンで拝見した、プリート・パルン監督の『ホテルE』のことが思い浮かびました。
次のシーンに何が来るのか、観る側の想像をずっと超え続けて、最後まで突き進んでいくような作品でした。
一方で、かなり緻密に構成されているようにも感じられました。何かしらのトータルなイメージが、しっかりこちらに伝わってくる。
その感触が、『紳士になるためのアドヴァイス』にもあったように思います。
平野:
頭の段階では、当然、作品全体としての構成を考えています。AからZまで通して観たときに、初めて意味を成すような面白さも必要です。
ただ、極端に言うと、ワンショットに1回はショックがないといけないと思っていて。
――私、映画がつまらないと、途中でも映画館を出ちゃうんですよ。
Axi(s)Rhythm:
そうなんですか?
平野:
そういう人は、あまりいないと思うんですけど(笑)。
作品全体としての構成は必要です。でも、ワンショットに一つぐらいはショックがないといけない。観ている人に対して、我慢を強いていることになってしまうので。
アニメーションの場合、特にインディペンデントアニメーションでは、私のように作画と監督を兼ねている場合もあるので、少し話は違ってくるのですが――実写映画のシステムでは、撮影と監督は別ですよね。もしワンショットに一つのショックを配備できなければ、「監督と呼ばれる人は、何のためにいるの?」ということになってしまう。
ただ、今回のようなアニメーションの場合、監督は作画もしているので、ショックを入れても入れなくても、紛れもなく「やった感」は出るわけです。「これは物語を語るために必要なシーンです」と言えば、それで済んでしまうかもしれない。
でも私は、視覚的、あるいは認知的な面で、「このショットは、前のショットからどのような驚きを生み出しているのか?」ということを、すべてのショットで問われたとしても、「いや、これはこういう理由で存在する意義があるんです」と答えられるようにした方がいいんだろうなと思っています。
〔2026年9月9日(水)インタビュー( Zoom経由)より〕
【文責:Axi(s)Rhythm】



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