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『安吾のごときもの歩く』(三木はるか監督)インタビュー&感想



※機材の不調によりオンラインミーティング当日の音声記録がなく、後日に改めて行った監督へのインタビューと合わせて再構成しています。


――『安吾のごときもの歩く』を制作されたきっかけ、経緯について教えてください。


三木:

2010年から映画を撮り始めて、年に1本くらいのペースで作ってきました。これまでの作品は、自分自身が登場して、自分の悩みを映画の中で解決しようとするような内容が多かったんです。本来、自分の映画だから自分が出てもいいじゃん、っていう開き直りが一つのテーマでもありました。

でも、だんだんと自分が出てくることに対して、不安というか、「またこのパターンか」って思われるのも嫌だな、という気持ちが湧いてきました。自分を描くにしても、別の人間や何かに成り代わって自分を表現できないだろうか、という実験をしてみたくなりました。

その実験の中で、誰でもよかったのですが、坂口安吾という既に亡くなっている男性で、私とは比較的離れたキャラクター設定の人になってみようと考えました。なので映像には私がいろんな場所を歩く様子が映っていますが、ナレーションの言葉はすべて坂口安吾の日記形式の作品、『戯作者文学論』から選びました。


 

【オンラインミーティングでの感想・意見】

・人間賛歌、人間への愛。博愛。三木さんを通して「人間ってこうだよね」という投げかけを感じる。恋人とビールをのむところがぐっとくる。入れ子構造?とはちょっと違うか。安吾自体に自己投影。

・坂口安吾を読んだことはないが、朗読されていて、世界を映像化されたような。夏休みのような時間を持て余している映像。9分過ぎのところの実家、廊下に紙の上にハサミ、置き方が刃がこちらに向いているのが怖くなった。出てくるモチーフが休園していたり、ちょっと理不尽なこと。

・どのあたりまで文章を改変されているのか? どこまでが本当で、演出なのか。自分を剥き身にしているカッコよさ。撮影はどの程度、決められているのか?

・色んな作品を見せて頂いて面白がっている、感動している。その人になり切る、というのを映像でやってみる人は少ない。作家が文学者になりきって作るのは面白い。この作品にも触れたことがなかったが、鬱屈している、いたたまれない不安、欲求不満。欲求不満で形にしていっている。三木さんを通して聴いていっていると、作家はポジティブなところから発生しているのは少ない。笑いの要素もいれようとしている、憑依しきれない自分。映像での模写。

・安吾が好きで読んでいたが、この作品をみるまでそのことを忘れていた。三木さんの語り口調で思い出した、もう一度読み直したい。転生ものが流行っているが、安吾が転生して映像作家になったような。

・朗読。文学の表現について考えた。自分の文章と文豪の文章の違い。文学表現の映像化。坂口安吾のいいかげんさ。

・自身が出続けることの不安。いつもと違う感じの作品。かわいい女性になりきることが多い印象だったが、男性を選んだことに驚き、新鮮。演出か本当なのか…リアルがみえているところも三木さんの手の内にあるといつも思っているが、今回は垣間見えたような気がする。ラストの足のカットが演じようがないところが現れていた、無防備さ。

・暑い、暑い、暑い。温暖化。書かれた80年前から暑かったのでは。書いたときは安吾は40代、ゆったりしている感じ、三木さんの語り口もあり。時間感覚が良かった。桐生市とのつながり。

・不思議な感覚。キーワード「私小説ファンタジア漂流私ャシン」。文章をフィルムで読んでいる。こちらがふわふわ漂っている感じ、安吾の世界か、三木さんの世界か?板書をされているのがきれい。

 

――オンラインミーティングで作品をご覧になった方からの感想・意見を聞いていかがでしたか?


三木:

最初に「人間賛歌だ」と言ってくれたのはMさんだったと思います。この作品に限らず、他の作品も「人間賛歌であり、人間への博愛の作品だ」と言ってくださったんです。正直に言うと、そのつもりで作っていたわけではないので、意外な気持ちもありました。私としては自分の個人的なことを描いているので、そこに普遍性があるかどうかはあまり考えていませんでした。

でも、Mさんはその底の部分を広く見てくださって、「博愛」という言葉でまとめて頂いたのは、とても嬉しい気持ちになりました。ただ、そういう意図で作品を作ってしまうと、逆にうまくいかないこともあるのではないかと思います。自分の作品だけでなく、多くの作品がそうなのかなと感じます。

だからこそ、自分を描きながらも、どこかで「あ、これ私にも当てはまるな」とか、「そういうことあるよね」と感じてもらえたら嬉しいですね。


――三木監督の作品には、紆余曲折があると思うんですが、最終的にはネガティブな部分が感じられず、それが人間賛歌に繋がっているのではないか、とお話を伺いながら思ったのですが。


三木:

間違いなく、作品を撮る時のスタートはマイナス感情が多いです。今幸せだからというよりも「困ったな」とか「不安があるからそれを表現しよう」と思って創作される方が多いのではと思うんです。私も多分同じで、漠然とした不安があるとか、そういう感情から始まるんですけど、その不安をなるべく悟られたくありません。今私が困っているとか、困惑しているとか、そういうことをあまり表に出したくない。だから、その不安を笑いの要素に変えて、できるだけ明るく楽しいものにしようとは意図していますね。


――坂口安吾に扮するという選択は、実に絶妙だと思います。『戯作者文学論』は確かにネガティブな要素も多いのですが、そこにはユーモアも感じられます。この点が三木監督の作品とも通じる部分があるのではないか、と今回お話を伺って感じました。


三木:

安吾自身は、いわゆる「無頼派」。彼の『堕落論』に見るように、人間は堕落していくものだというある意味での開き直りがあります。もちろん、その点が彼の本質だろうとも思いますが、彼の作品には優しくない部分も多くあります。そこがやっぱり面白いんです。

安吾の作品は「みんなで幸せになろう」といった展開ではなく、人間は堕ちていくものだ、みたいな。

例えば、彼の日記にしても、どこまで本当かわからないですが、自分が全然書けないとか、登場人物が勝手に動いていくみたいなことを書いたり。もしかすると彼は緻密に計算して書いているのかもしれませんが、日記の中では自分の意図に反してキャラクターが動くと感じていたり、書いたものを全部捨てたとかもあります。こうした部分に憧れがありますし、かっこいいなと思うんです。安吾自身ももちろんネガティブな感情スタートの人だよな、とも思うので扮するならこの人かな、と。


――感想を受けて、その他に思われることは。


三木:

「何かになりきる」という作風が珍しいとの意見は、確かそうかもと感じました。商業映画ではないので、ジャンルで言うと実験映画や個人映画に分類されると思いますが、そこでは積極的に笑いを取ろうとする人は少ない印象です。私が坂口安吾に扮している点についても、笑えるかどうかはともかくとして、笑ってもらいたいという気持ちはあります。扮装がうまくいっているようで、実は全然うまくいっていないところが徐々に見えてくるといいなと思っています。

だから、珍しいと感じられる視点があるのは興味深いです。「何かになりきる」というのは、みんながやっていないからという理由でやろうとしているわけではなくて、今やるならこれしかないという強迫観念みたいなものでやっている部分もあります。周りがやっていないからやってみよう、というわけではなかったですが、他の人との重なりは少しは避けられたのかなと思いました。


――作品の終わり方についてですが、『戯作者文学論』で安吾がこだわっていた「肉体」が、最も感じられた部分かとも思いました。


三木:

撮影をしながら、どう作品を終わらせるかについては全然わからなかったんです。でも、安吾の言葉だけは決めていました。「重い魂が軽いのではない。軽いものが軽いのだ」という言葉です。自分が作っているものが重いと感じるか軽いと感じるかは観る人によるということですが、大事なのは、作品が人を動かす力を持っているかどうかはその質にかかっているということ。つまり、命をかけて書いているかどうかということだと思うんです。最後にその言葉を持ってくることで、自分の覚悟が示せたらいいなと思っていました。だから、大きなどんでん返しのようなオチは必要ないと考えていました。

それで、どうやって終わらせるかと考えたとき、足を映すことにしました。よくよく見ると、下駄の鼻緒の跡が焼けているんです。そこを見せたかったんです。ちょっと見えにくい部分もあるんですけど、ただ歩いた記録として。何かを歌ったり踊ったりするわけではなく、ただその格好で夏の暑い日にいろんな場所を歩いたり、水の中に入ったりしていた。それだけのことしかしていませんが、足が日焼けして鼻緒の形が残ったという事実が作品の終わりになると思って、そのために長めに足を撮影しました。


――音楽について。『ジムノペディ』は坂口安吾が好んで聴いていたという話がありますが。


三木:

安吾がサティを好きだったという記録もありますね。

実は、『ジムノペディ』を使った理由には裏の意図もあるんです。映画監督の平野勝之さんが昔、個人映画や実験映画をたくさん観ていた時期があって、その時の多くの作品が「つまらない」と感じていたと言っていました。静かな風景にサティの曲が流れるだけで「実験的でしょ」とされる作品が多かったみたいで、それに対してかなり不満を持たれていたんですね。

だから、もし私がサティを使うとしたら、そういった「実験性」を狙って使わないと決めていました。もちろん、サティの曲自体が実験的な要素を持っているとは思いますが、そのまま使うつもりはなかったんです。それなら、積極的に使ってみるものが1本あってもいいかしらと思って取り入れてみました。でもサティの素晴らしさを借りたいわけではなく、平野さんの話もあって、自分だったらこう使うという実験もしてみたかったんです。ブツ切りにしてみようとか(笑)


〔2024年7月12日(金)オンラインミーティング/7月22日(月)再インタビュー より〕


【文責:Axi(s)Rhythm】

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