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『Daydream of TV』(林ケイタ監督)インタビュー&感想



※機材の不調によりオンラインミーティング当日の音声記録がなく、後日に改めて行った監督へのインタビューと合わせて再構成しています。


――『Daydream of TV』を制作されたきっかけ、経緯について教えてください。


林:

この作品は2022年に制作したものですが、そもそもの始まりは、2020年にコロナが広がり始めた頃、我が家の古い液晶テレビが不調をきたしたことでした。画面に縦縞が現れるエラーが頻発し、調べてみると、液晶テレビではよくある症状だとわかりました。ネットで検索しても、修理方法や買い替えの話ばかりで、この状態をどうすべきか悩んでいました。テレビの寿命もきていたものですから。でも次第にその状態自体が面白く見えてきて、これを記録し、何らかの形で作品にできるのではないかと思い始めたんです。

このエラーはテレビをつけた途端に縦縞が出るのですが、10~15分ほどで消えてしまいます。その状態が2ヶ月ぐらい続いてから、後は何も起こらないこともあります。買い替えようかと考えつつも、縦縞がまた出てくるかもしれないという期待感もあって、そのまま使い続けていました。この縦縞が出たり消えたりする様子が、予測不可能なところも含めて、次第に楽しみに感じられるようになってきたんです。「今日は大丈夫かな」「久しぶりに出たな」という感じで、テレビと付き合っていくことになったんです。

この不調の様子を撮影しているうちに、次第に過剰な想像力を掻き立てられてしまいました。テレビがまるで白昼夢を見ているかのように感じ始めたんです。意識が朦朧としていて、また正気に戻る様子が、人間とどこか似ていると感じました。そうしたことから、この作品『Daydream of TV』は、白昼夢みたいなことがテーマになっているんです。

テレビがエラーを起こしているだけの映像なので、編集はほとんど行いませんでした。僕自身の作り手としてのアプローチがどのようなものになるのか、模索しながら、最終的に映像の方はテレビに任せることにして、僕は音楽を担当することでエラーと音のセッションを試みました。それこそアクシリズムは「軸」や「リズム」がテーマですけど――テレビの縦縞や色の変化に音を合わせていくことが、今回の試みでした。最初は作品とは言えないなという気持ちもありましたが、自分の主体性は音ということにして。エンドテロップには、テレビの型番を載せたりして、僕自身が映像を操作していないことを強調しました。


 

【オンラインミーティングでの感想・意見】

・地層、光跡、土星…自然のもの。神秘的なものを見ている。TVの音声で、TVであることを気づかされる。観ていて気持ちいい。

・瞑想。意識がこの次元に無いような、向こうに行っているような。機械に意思があるという話を聴いたことがある。それともリンクする。

・TVがラストに出てくるところで感動する。物や道具に思い入れがある。TVとのセッション。道具に寿命を感じることは少ないが、生きている。TVは家族と接することの多い道具。

・ネット環境で初めて見た、環境で印象が変わる。2001年宇宙の旅。対話。音楽がそれを思い起こさせる。HALとの関係性。

・8mmフィルムの実験映画、水面のきらめきを延々と映しているような。物語的にオチをつけるなら、買い替えの場面をつけるとか。意図したのかたまたま映ったのか、この作品は考えられていると思いますが。

・美しい映像。音色を見ている。いつまでもみていられる。没入感。終わり、について考えた。認知症の方、悲しいながらも最後の力で光が放たれている面白さ、美しさ。ニュースの音声が一瞬はいる、夢から覚めたようにも思ったが、どっちが夢だったのか。

・ルーメンギャラリー最後の上映で観たが、今回は2度目。スクリーンでみるのと、ネット環境でみるのは音の響きがちがう。どちらにも良さがある。

・「アジタンアフ」画から音楽を生み出していることで「ファンタジア」と逆。音楽が素敵。予測不可能さはあるが、どこかからメッセージがきているのでは、事象の地平面?ブラックホールからきているのか?宇宙からきている音楽。

・屏風。音楽の最後、セリフ。縦のラインが印象的。光る、動く、ディスプレイ上の屏風。

・アクシデントから作品にするのは作家にしかできない芸当。TVの画面であることを忘れる一瞬がある。本来映るべきものの正体はこちらかも。デジタルなのに自然、宇宙を感じる。観ながら飽きることはない。

 

――オンラインミーティングで作品をご覧になった方からの感想・意見を聞いていかがでしたか?


林:

僕自身が考えていなかった視点も多く、大変刺激的でした。確かに、「トリップ系」や「意識下のイメージ」、「瞑想」といったテーマは、僕の中でも作品制作の際に想起することがあり、世界の奥底や根源に結びつくイメージを描いていたと思います。さらには、『2001年宇宙の旅』を想起したという意見もありました。HALとの関係性についての意見はとても興味深かったです。

機械は単なる物体に過ぎないのですが、壊れたり予測不能な動きを見せたりすることに、人間が美しさを感じることもある。人間と機械の関係性のなかにはそういうものがあるのかな。そういった意見をいただいたことで、僕も改めてその側面を意識しました。

オンラインミーティングでもお話ししましたが、認知症とも関連性があると感じました。認知症の患者さんが、白昼夢のように非現実的なことを話しつつも、時折非常にまともな会話をされることがあります。これは、多くの方が経験されることだと思いますが、現実と夢の境界が曖昧になる中で、受け手としての創造性が刺激される瞬間があります。非現実的な、夢のような話に現実的に対応せず、こちらもその夢に入っていくというような関係性を築かないといけない。介護の一つのルールでもあるのですが。

この現象と、今回のテレビのエラーが重なり合うことで新たな発見をしました。現実的ではない状態にあるからこそ、そこから別の意味の会話が行われるのかもしれないと感じました。


《前回のミーティングで発言のあった、『Daydream of TV』で使用されたテレビ・AQUOSの製造メーカーであるSHARPにも話が及ぶ》

前回のミーティングでSHARPの話が出て、とても興味深いと感じました。SHARPはかつて良い時期があって、しかしその後には凋落を経験しました。そういう企業の問題も想起できる。SHARPが世界に誇ったテレビがあり、メーカー自身は凋落して、その後にもテレビは壊れても美しい光を放つみたいな。自分では思いもよらなかった視点でしたが、とても面白い話だと思いました。


―― 一時期、廃墟ブームがありましたが、物が崩壊していく過程で生まれる美しさには独特の魅力がありますね。今回の作品にも、同じような美しさが表現されているように感じました。


林:

壊れたものには他にも美しさがあるんじゃないかと。これからの連作では、ガラスや壁のヒビに注目しようと思っています。ヒビって面白くて、さまざまな人が被写体にしてきましたが、特にガラスが割れたときにできる斜めの線は予測不可能で、とても興味深いんです。ガラスやその他の物質に生じるヒビにも関心が出てきて、次回のアクシリズムで発表するできればと思っています。今回の縞々模様の映像とレイヤーで組み合わせるなど、そういったシリーズ作品に発展させていこうと考えています。


――これは答えのない話ですが、人間がなぜそういうものに惹かれるのか考えています。私は、例えば2層式の洗濯機の渦を見つめ続けることがあるのですが、それにも同じ感覚を覚えるんです。


林:

そうですね。何かをぼーっと見つめてしまう瞬間ってありますよね。その時って、あまり考え事をしていないことが多いし、何も考えずにただ何かをずっと見つめ続けてしまう。例えば、オーロラを見てしまう瞬間なんかがそうだと思うんです。オーロラはもちろん神秘的ですが、2層式の洗濯機を見つめてしまう感覚も、根本的には同じだと思います。

何かを凝視してしまうという行動には、時間の問題も関係していると思います。

人生には必ず終わりが来るし、映画も始まれば終わりがある。私たちは、いつか自分自身もどこかで終わることを心のどこかで理解しているんですよね。そういった終わりの瞬間に、何か美しさを感じたり、今までの価値観とは異なる新たな価値が最後のメッセージとして現れることがあります。特に、認知症のような状況に向き合うと、そういったことをどうしても考えてしまうことがありますよね。例えば、電球が切れる瞬間に一瞬だけ明るく光ることがありますが、あれも同じようなことかもしれません。――そういうようなことを色々考えてしまいました。特に今回難しかったのは時間の問題ですね。


――編集は、ほぼ無かったという話ですが?


林:

バッと光が変わる時は編集のように見えるんですけど、実はチャンネルを触ってます 。


――最初この作品を拝見した時は、琴線に触れるような映像を作られている、いう感想でした。ところが 実はテレビの故障であったことを知り衝撃を受けました。しかし思考を突き詰めていくと、観る側の発想がが広がっていく、それがこの作品の面白さなのかなということを改めて思いました 。


林:

僕自身、正直言ってあまり主体的に動いている感じではない部分もあるんです。だから、悩んだんですよ。テレビの音もそのまま出したほうがいいのかもしれないって。これについても物議をかもしましたが、最後にテレビのネタをばらすシーンが「作為的だ」って言われたりしましたね。

やっぱり、「こうしよう」「ああしよう」って考えると、作為が出てくるんです。「これはテレビが勝手に起こしたことだけを映してますよ」って言い切ることは難しいんですよ。何分にしようとか、終わりをどうしようとか、クレジットをどう入れようとか、音のイメージをどうしようとか、そうやって考えていくと、どうしても作為や操作が入ってしまう。

アクシデントが起きてしまえば、結局のところコントロールしている部分もあるんです。


――それは正しく「ドキュメンタリー」そのものではないでしょうか?


林:

「ドキュメンタリー」の面白さはそういうところにあるのかもしれませんね。映画全般がそういえるのかな…。




〔2024年7月12日(金)オンラインミーティング/7月23日(火)再インタビュー より〕


【文責:Axi(s)Rhythm】

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