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『シジフォスの弟子』(山口健太 監督)インタビュー&感想

  • 執筆者の写真: Keiji Takenaka
    Keiji Takenaka
  • 10月16日
  • 読了時間: 6分

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Axi(s)Rhythm:

作品制作の経緯についてお聞かせください。


山口:

日常の中で感じる「徒労感」の正体を突き止めたい、という思いがずっとあります。僕は自作自演の劇映画を作り続けてきましたが、自分の体やアクション、演技を通して、日常の中で感じる徒労感の正体を探りたいと思ってきました。

今回の『シジフォスの弟子』というタイトルは、カミュのエッセイ『シシューポスの神話』に着想を得ています。シシューポスはシジフォスとも読みます。簡単に言うと、シシューポスは神のタブーを犯した罰として「岩を山頂まで運び、落とされて、また再び運ぶ」という無限の罰を与えられた存在です。作品の冒頭でも説明していますが、この神話がモチーフになっています。日本でいえば「賽の河原の石積み」に近いイメージかもしれません。

このモチーフをもとに、日常の動作の繰り返しを徒労感の表れとして描こうとしました。例えば「当たり前だから」「やらなければならないから」と積み重ねられる行為――家制度のように世代を超えて繰り返されることや、その家の中でのもっとミニマルな「窓を開け閉めする」といった人生で何千回も繰り返すような動作です。そうしたことをアクションを通じて表現し、劇にできないかと試みました。


参加者A:

まず、全然関係ない話を少しだけさせてください。フィルムの冒頭、真っ白な部屋が映し出されますよね。何もない真っ白な空間を目にした瞬間、僕は圧倒されました。というのも、実は僕には霊体験があって、父が亡くなったときに、この真っ白な何もない部屋で父の死を眺めるというような体験をしたことがあるんです。その記憶がよみがえってきました。

それから、段ボール箱を持ち上げるシーンがありましたよね。あれを見て「自分なら腰を痛めるだろうな」と思ったんです。ちょうど今、椎間板ヘルニアで腰を痛めているので、「あんな動作をしたらたまらないな」と。

また、この作品を「他人事じゃない」と感じました。僕自身も親の面倒を見ているのですが、親から「あれをしろ」「これをしろ」と色々言われる立場なんです。だから作品にとても共感できました。同じ体験かどうかは分かりませんが、自分の中に響くものがたくさんあったんです。

そして作品の中で、女性の声で「あれをしろ」「これをしろ」と指示される場面がありますが、最後にはその女性自身も同じような感覚に陥っているシーンがあります。それを見て「これは一方的な話ではないんだな」と思いました。人間は誰しも、言われる立場であると同時に、言う立場でもある。おそらく誰もがどこかで「シジフォスの弟子」のような境遇に出会っているんだろうな、そんなことを考えながら観ていました。


山口:

少し恥ずかしいくらいに言い当てられてしまった気がしています。僕はいま30歳で、親は60代に入り、祖父母はすでに老人ホームに入っている状態です。この作品を作った当時、父親が脳出血で倒れ、右半身麻痺になりました。死んではいないけれど、家長としての役割から一旦退いたような状態になり、僕がすべてを担わなければならなくなったんです。税金の手続きや傷病手当金の申請など、様々なことを背負う中で強い徒労感を感じていました。

その時期に「家族とは何なのか」ということを深く考えるようになりました。家族は愛や絆といったウェットな言葉で語られることが多いけれど、本当はもっとドライなものではないか。突き詰めれば「誰が何をするのか」「誰が誰に何をやらせ、誰がやらされるのか」という力関係にすぎないのではないか、と考えるようになったんです。それが今回の作品の発想の根本にあります。

そこに母性があり、その背後にはや父性がある。父性があるからこそ母性が必要になる。その母性を活かして家族の平穏を保つ――そうした構図を表現したいと思いました。

また、真っ白な部屋については、死後の世界やこの世ならざる場所を意識し、家族をシミュレーションする空間として設定しました。父が生死の境をさまよう状況にあったことも重なり、先ほどご指摘いただいた内容はまさにその通りだと感じています。


参加者B:

テンポや言葉の感じ、表情もすごく面白くて、笑いながら楽しく拝見しました。

気になったのは、母親の雰囲気がかなり若く見えたことです。最初は恋人なのかな、とか、お姉さん的な存在かなと思っていたのですが、後半でクマのぬいぐるみを持つ場面が出てきて、ようやく「母親」という存在だとわかりました。あえて若めの雰囲気にしているのか、それとも何か意図があるのか、その点が少し気になりました。

また、米袋を枕にして寝ているシーンも面白くて好きなのですが、その横に置かれていた紙飛行機についても、何か意図があるのかなと思いました。


山口:

母とされている女性の年齢がはっきりしない、という点についてですが、これは「母」というものを「母」という役柄で固定したくなかったからです。実際の母親も、いつからか「母」という役割を家族の中で演じなくてはいけなくなった存在だと思います。私は、その「演じる」以前の姿に戻って作品を終わらせたいと考えました。

そのため、いわゆる一般的にイメージされる母親像にはしたくなくて、主人公と同じくらい、あるいは少し若いくらいの年齢感で描きました。母のかつての姿が「母」を演じている。その滑稽さを、人形を持つような行為を通じても表現したいという意図がありました。

また、紙飛行機についてですが、劇中ではあまり触れられていませんが、当時、ロシアのウクライナ侵攻が始まり、国家的な暴力が顕在化した時期でもありました。その要素を作品に絡めたいと思っていました。本当はもっと劇中に組み込む予定でしたが、自分の力不足でそこまでダイナミックにはできませんでした。ただ、飛行機のような象徴的なものを残すことで、観客の方々が何か考えるきっかけになるのではと思い、カットせずに残しました。


参加者B:

額に水を垂らすシーンについてですが、以前「額に水を垂らし続けると頭がおかしくなる」という拷問があったと聞いたことがあり、そのことを思い出しました。


山口:

まさに実在する拷問「水拷問」が元になっています。ナチス・ドイツなどファシズム政権が行っていた拷問の一つです。劇中では一定のリズムで水が垂れるように描きましたが、実際の水拷問はもっと恐ろしくて、一滴垂れたあと次の一滴が5分後だったり、あるいは3時間後だったりする。その間、頭を固定されたまま次を待たされることで、最終的に人は気が狂ってしまうんです。

さらに怖いのは、僕自身が中学生の頃、サッカーのクラブチームで実際にそれに近い体験をさせられたことです。コーチがスパルタ気味で、僕が辛そうな顔をしたとき「こっちに来い」と言われ、地面に寝かされました。そしてスクイズボトルの水を額にポタポタと垂らされたんです。 本当にこの劇中の最後にあるセリフがそこから引用しているんですけど、そのとき「これが本当に苦しいということなんだ」と言われたのを今でもはっきり覚えています。

後になって調べてみると、それがナチスの拷問の一形態だったと知り、ものすごくゾッとしました。あのコーチは中学生の僕にそれを知ってやっていたのか――と考えると本当に恐ろしくて。その怖さを映画にしようと思っていました。今回の作品のテーマが「終わりのないこと」にも通じるので、殴られるとか、痛み以上に恐ろしくしんどい拷問として、この水拷問を劇中に入れることにしました。

〔2025年8月22日(金)オンラインミーティング より〕


【文責:Axi(s)Rhythm】

 
 
 

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